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地方が面白くないって誰が言った?飲食で変わる地方の未来①〜コロナ終息後を輝き増す機会に〜


この記事は弊社代表・佐藤による時事通信社「地方行政」誌2020年6月1日号への寄稿の記事転載となります。



アフターコロナと地方の歩み

 皆さま初めまして。バルニバービという飲食業の会社を経営しております佐藤と申します。
この原稿を書いているのは5月初め、新型コロナウイルス感染症(以下コロナ)の影響で例年とは全く異なる、国全体が静まり返ったゴールデンウイークの真っただ中。新規感染者増加数は減少傾向というものの、緊急事態宣言が延長され、国内の経済活動に大きな支障が生じているというタイミングです。

 この原稿が読まれる6月頭には、事態はどうなっているのでしょうか?
 犠牲になられた世界中の方々への哀悼と、今もなお苦しまれている方々への思いを込めて、一日も早い終息を祈念しています。

 メディアを通じ皆さまにも情報が入っているとは思うのですが、我々外食事業者にとっても他のサービス業の方々同様、非常に厳しい状況となっています。元々コロナが取り沙汰される前にこの記事の依頼を受けていました。「地方で稼ごう」というタイトルそのままに、僕自身の取り組んできた他社とは違う、ある意味独特のスタンスに「地方」の未来を重ね合わせて考えてきた理由や、それに対して動いてきたプロジェクトの概要を書いていこうと考えていたのですが、コロナの影響によりさらにその思いは強く大きくなってまいりました。まさしく、アフターコロナは地方が輝きを増す、もしくは取り戻す機会なのかもしれないというふうに考えます。
 そのためには、今回の連載において「地方で稼ぐ」具体例とその現状と可能性・拡張性をこんな時だからこそ、より明確にしていかなければならないと意を強くしております。

 我々の店舗が施設の活性化の一助となったり、地域の復興を託されたり、何より寂れていた街が賑にぎわったり。
「その街に無くてはならない存在としての飲食店の在り方」と「飲食店のあるべき意味と役割」。
そんなことを考えながら進んできた道、そしてその歩んできた経験が、これからの日本の重要課題である地域活性化の一つのヒントとして、そしてアフターコロナの希望の灯に僅わずかばかりでもなることができればと思っております。

 「日本一カフェで街を変える男」という、些いささか大仰なタイトルの書籍も出版していただきました(写真1)。
 以下、食ビジネスを通して「地方」との関係性や可能性を拙文ではありますが綴ってまいります。よろしくお願いします。

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写真1 「日本一カフェで街を変える男」の表紙



あの日気付いたこと

 1995年12月、当時夕暮れを過ぎれば人通りも少なくなる大阪中心部のやや西に位置する南船場というエリアの一角に、私たちの1号店ブラッスリーカフェ「アマーク・ド・パラディ」が産声を上げました(写真2)。あの阪神淡路大震災から11カ月後のことでした。それから24年余り経った今、さまざまなエリアにて九十数店舗の飲食店を経営しています。

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写真2 1号店「アマーク・ド・パラディ」オープン当時

 それは「多店舗化できる業態を開発する」であるとか、「運営をマニュアル化し誰でもできる、全国展開のオペレーションシステムを構築する」といった、一般的な飲食事業会社が行う手法とは全く異なる我々独自の道でした。

 京都市に生まれ、神戸市の大学出身(4年次中退)である僕が青春を過ごした街は1995年1月17日午前5時46分、戦後最悪といってもよい都心部での惨事に見舞われました。その頃の僕は2度目の起業をし、小さな企画会社(有限会社バルニバービ総合研究所)を大阪で営み、大阪に住まいを構えていましたので直接的には被災はしませんでしたが、仕事の多くは中断、中止に追い込まれました。何か役立ちたい、何か動きだしたいと悶々としていた震災から数日後のある日、一本の電話が入りました。僕が神戸で関わらせていただいていた、プロジェクトのオーナーからでした。
「佐藤さん、いつまでも嘆き悲しんでいても仕方ない。何か動きだしましょう!炊き出しはいかがですか?そのための備品は手配できました」。
比較的復興が早かった神戸市南京町の神戸中華街にビルを持つ彼の店先で、一緒に炊き出しをしませんか? というお誘いでした。
もちろん即答で「是非に!」。

 その年の冬は、暖冬の昨今とは比べものにならない寒さでした。雪のちらつく1月末の夕暮れ、我々の炊き出し、中華粥の鍋が湯気を立て始めました。オーナーと話し合い無料での提供はやめましょうということで1杯100円にした白粥に、驚くほど多くの方々が列を成してくださいました。
皆さん口々に「生きててよかった!」「頑張ろうね」と、自らを鼓舞する言葉。と共に「ありがとう」「美味しい!」と......。
特別美味しいはずがありません。塩とごま油だけで味を付けた具も何もない粥です。それでも肩を叩たたきながら、抱き合いながら、時に涙を流しながら、食べていただきました。僕も「頑張りましょうね」「ありがとうございます」と一杯一杯心を込め、器をお渡ししながら、いつしか涙が止まらなくなっていました。泣いているのではありません。涙がそれこそ止めどなく溢れ出す、そんな感じです。舞う氷雪と鍋の湯気、人いきれに混じり、僕の涙は街の中に埋もれていました。街角至る所に涙がたゆたっていたのですから......。

 片付けを終え帰宅した僕は、疲労と共に軽い放心状態でした。ネガティブな感覚ではない、むしろ高揚感に近い感じです。その感覚がいつまで続き、どこでどう変化したのか記憶はおぼろげなのですが、明らかにその日をきっかけとして僕の中で大きな心の動きがありました。それは人生で初めてかもしれない、大きな気付きと言ってもいいものでした。その気付きこそが、僕の人生においての目標を明確化してくれました。

 食べ物はこんなに人を元気に、笑顔にできるんだということ、そして、人に食べてもらうことによって、何より僕自身が喜ぶ、僕自身が幸せを感じるという、当たり前ですがいつの間にか見過ごしていたことに改めて気付いたのです。
 「食べ物の店で人を喜ばせ、自分も喜ぶ」という、自らの歩むべき道を33歳にして確信した瞬間でした。
 元々、僕の祖父母は僕の生まれる前、先代の曽祖父母から引き継ぎ、当時としてはまだ珍しい洋食店を大正時代に営んでいました。僕の誕生時はすでに菓子店に業態転換していたのですが、食卓で出される料理は「ハイカラな洋食店」のメニューそのもの。台所で食事担当だった、祖母の調理の手伝い(邪魔?)を小学校3〜4年生頃には始めていたという記憶があります。ハンバーグからタンシチュー、ハヤシライスと次々と調理していく洋食店仕込みの祖母の手際が魔法のように見えたものでした。そしていつしか休日には、僕が昼ご飯を担当するようになりました。
 僕の拙い料理を涙を流さんばかりに美味しいと褒めてくれた家族のあの笑顔と、その時に感じた「嬉しいという思い」。33歳の炊き出しのあの日の出来事は時を超え、その幼き日の喜びを蘇よみがえらせてくれたのです。

 〝そうだ!これこそが生きるということではないか‼〟
人を喜ばせて自らも喜ぶ、自らの「人を喜ばせたいという思い」のために、これからの人生をもう一度歩きだそう。資金も該当物件もなければどんな店にしたいというデザインイメージもないまま、その場に溢れるお客さまの笑顔だけが僕の心に鮮明な映像となり広がりました。その日から、出店のための金策と物件探しが始まったのです。



1等立地でなくていい

 スタートの地として選んだ南船場は「浪速の商人の街」として知られた繊維産業の中心地・船場の南側に位置し、その昔、繊維のみならず、木材や塩、食品等の商いの街として栄えた地です。しかし、糸偏産業の斜陽とともに街は衰退していき、1号店開店当時の1995年にはひっそりと佇たたずむ少し寂れたオフィス街となっていました。
 出店をする上で、大事な要素として資金調達とともに、物件選びがあります。それに当たり、僕の胸にあったのは「1等立地は無理だし、避けよう。とはいえ、とっておきの気持ちの良い、特別感のあるロケーションにしよう」というものでした。当時は好立地物件の保証金、もしくは敷金というものが家賃の30カ月などというのはザラ。60カ月、100カ月などということさえありました。資金力がない僕には手が届くはずもありません。だからと言って、単に2等立地、3等立地で妥協しようと思っていたわけでもありませんでした。誰もが見過ごしているけれど「視点を変えたら」、つまり「〝僕〟独自の角度で見たら」魅力が浮かび上がってくるような物件を探し出そうとしていたのです。まさしく我々が現在も標榜する「バッドロケーション戦略」そのものです。そして、それは今回のテーマである「地方で稼ごう」につながる考え方でもあるのです。

 南船場エリアは大阪で一、二を争う商店街の心斎橋筋から目抜き通りの御堂筋を挟み、徒歩でわずか5分の場所に位置しています。それにもかかわらず、その二つの風情は全く異なります。商業立地のロケーションを語る時、道一本で人の流れはガラッと変わるといわれます。その典型例です。もちろんそれは事実ではありますが、「人の流れに商売をぶつける」という、既存の考えに基づいての有効理論です。それは、商売は需要のある所に供給をぶつけるのだという、一見当たり前の理屈です。その考えでいくと、できるだけ人の流れの多い所でなければ商売として勝てません。そして、そういった立地にある物件は当然、皆が求める故、家賃や保証金といった条件が高くなります。
 さて、一度ここで僕が言う視点を変えてみるということを意識してみてください。これはまさしく、地方都市の生きる手法につながっていきます。なぜなら一番人口が多くその密集度の高いのは首都圏であり、その消費ポテンシャルの大きさはとてつもなく、それ以外のエリアは全て2等立地、3等立地ということになってしまいます。それでは結局、商売をするにはその効率性からも首都圏のみが最適で、地方はイマイチだという既存公式となってしまうのです。でもそれは何かが違う、もしくはそれでは身もふたもないと、皆さんも感じるのではと思います。
 今までのマーケティングでは需要を調査し、そこに供給を提供するという手法が取られてきました。ごく当たり前のように見えますが、ネット社会においてはそれは明らかに必要十分ではありません。個人個人は自らの嗜好性や世界観をベースに、縦横無尽にネットサーフィンやオンライン上での同士とのコミュニケーションなどを通して、自らの「欲しいもの」を無限の範囲から手に入れていきます。マスメディアから大量に流れてくる、一方通行の情報を受け取っていただけという昔の状況ではありません。個人の需要は「個」のものとして、「個」に内包しているものですから、既存のマスマーケティングではなかなか浮かび上がりません。その未来のマーケットを「想像し創造すること」、それこそが次代のあるべき道であると我々は考えています。まさしくあらゆる可能性のバリエーションを試しながら歩んできた歴史、それこそが「バルニバービ=我々」なのです。
 既成概念では読み取れない、その想像力で創造していくしかないという前提で選んだ物件は南船場の一番西のエリアにあり、休日ともなれば人通りはほぼない、一方通行の裏道に面していました。少し前まで、木材のショールームだった2階建ての一軒家。しかし、木材が扱われていた以前の業種上、「天井が高い」ことは何より魅力的であり、かつこれだけ人が通らない道に面しているからこそ、道側に設置するテラス席は快適だろうとも感じました。その中で大きなポイントとなったのはそれだけ人の流れがないにもかかわらず、大阪の地下鉄の中でも乗降客の多い(往復で17万人を超える)心斎橋駅の最寄りの出口から、10分足らずの場所に位置していたということでした。物件に出会って以来、当時馴な染じみはあまりなかったその周辺を歩き回りました。夏の真っ盛りの午前中、午後、夕暮れ、夜更け、平日、休日、雨の日etc.。そのたびにいろいろなことが見えてきました。
 そういうエリアですから当然家賃は安く、そこに拠点を構える会社は新興企業であったり、クリエーター系であったり、何か面白いことをやろうとしている若者であったり。当初は全く何もない街だなあと思っていたのが、じっくり歩いてみることでさまざまな動きがあることも見えてきました。連日満員で立ち食いまで出ているカウンターだけのイタリアン、地下で心のこもった料理を提供するものすごく格好いい和食店(この店舗は友人でもあり、当時まだ無名だったあのインテリアデザイナー、森田恭通さんの初期のデザインでした)、アーティスト本人が主催するギャラリー......。街の魅力が世に知られる閾しきいち値にはまだ達しないものの蠢きはある‼ 化ける要素はある‼ と認識できました。
 余談ですが現在、日本全国の自治体や不動産所有者の方からいろいろな物件の相談を持ち掛けられます。あまりの多さに全てに伺うことは不可能なのですが、まずは僕のセンサーが働いた所を優先に現地の内見に行きます。先方の方々と我々サイドによる大人数での内見ですが、どんなときもいったんそれが終わると、皆さまにお願いして一人にしてもらいます。そうして近隣・周辺を25年前にしたように一人きりで歩き回ります。書類で把握できることは訪問前に把握していますが、紙には表れない空気感や街に流れる気配みたいなものを感じるための時間です。



そう簡単には上手く物事は進みません

 さて無事1号店の契約を済ませた後、資金は限られていましたので解体からセメント、ペンキ塗りは自ら仲間たちと行い(写真3)、ようやくその年の12月半ば、開店を迎えることができました。しかし開店から大賑わいで、街も活気を取り戻して......というように上手く 物事は進みません。どさくさに紛れて年内の 10 日間はクリ スマスもあったことを含め、何とかささやかな開 店景気の中でしのげましたが、年明けには厳しい 現実が押し寄せました。
スタッフ5人にランチの お客さま3人、ディナー含め1日の売り上げ2万 円などという日もある中、スタッフの手前、強気の姿勢は崩せませんが、心の中では「やはり人通りの少なさには勝てないのか。僕の目論見違いか?」という弱気が芽生えてきます。来る日も来る日も恐ろしいほど店は賑わいません。けれど毎日、少ないながらもお越しいただいた方々に接客し会話し、時に客席に腰掛け、コーヒーを飲んだり食事を取ったりすることを自ら繰り返す中「絶対に気持ちいい」「僕は来たい!」「今までの大阪にはなかった画期的な店だ」という感覚が、自らの中では深まるばかりでした。

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写真3 1号店のペンキ塗りをしている様子

 先ほど述べた人の流れと同じです。人の流れの 多少に重きを置くのではないという理屈同様、多くの人のデータ分析を定量で行うのではありません。つまり多数の母数のミーン(平均値)やモー ド(最頻値)、メジアン(中央値)を探し当てるのではないのです。一人もしくは少数の人間をあらゆる角度から徹底的に深掘りし、TPOを踏まえ本当に愛されるもの、嗜好されるものを見いだし、需要を掘り起こし、こだわり抜き、磨き上げた商品、サービスを世に提案することしか、我々のようなちっぽけなアリが巨象に勝つすべはありません。言い方を換えると、それこそが大手にはできないことなのです。僕も牛丼をはじめファストフードは大好きですし、同時に時には数万円も するステーキハウスや割烹料理店に行くこともありますが、街場のコーヒーショップと高級ホテル のカフェとは、そのシーンや目的によって使い分けます。つまり、大手と差別化を図って我々の店と使い分けてもらうことが必要なのです。また、自らの普遍性や経験値、嗜好性、本質、アンテナの感度を信じ、分析し、どこにもない(潜在している)オリジナルなものを生み出すことは、ほっておかれているエリアや地方に目を向けることと同義なのだと思います。最小単位である一人の人を徹底して分析し、全体を俯瞰する(その考えを僕は「ミクロがマクロを包括する」と名付けているのですが)。これは、地方を「東京都というマクロ」のミクロ版と見るのではなく、地方を徹底 分析すれば大都会東京に無いナニモノかになり得る思考法だと捉えてください。
 その見方で決めた「アマーク・ド・パラディ」 は、2等立地、3等立地といわれたにもかかわらず、開店からわずか半年余りで行列の絶えない月商1500万円を超える大阪市内でも有数の飲食店へと育ちました。
 南船場変貌の蠢きスタートです。